志賀直哉『赤西蠣太』(1917年・大正6年・35歳)

あらすじ(ウィキペディアより)

白石城主・片倉景長から伊達兵部原田甲斐の悪事を探るため派遣された間者・赤西蠣太は醜い顔立ちの上胃弱、しかし大変お人よしである。おおよその事を調べ終えた彼は国許へ戻ろうとするが、正式に暇をもらおうとして不都合を言われると困るので、夜逃げを企てる。

ただ夜逃げするのにそれなりの理由がないと怪しまれてしまうため、美人と評判の腰元・小江に恋文を送る。こっぴどくふられるはずだったが、なんと小江は求愛を受け入れてしまう。蠣太は小江の清い心を傷つけたことを後悔する。さらに人目に触れるようにと廊下に置いていた手紙は老女・蝦夷菊に拾われて、彼の手元に返される。仕方なく、老女に置手紙を残して脱走する。

 かんそう 

1.どのように感じたり、思ったりしたか。

 

2.作品のテーマは何か,作者は何を言いたかったか。

 

3.その他、言いたいこと、尋ねたいこと。

 

志賀直哉『小僧の神様』(1920年・大正9年・38歳)

あらずじ(ウィキペディアより)

神田の秤屋で奉公をしている仙吉(小僧)は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに鮨屋に入るものの、金が足りずに鮨を食べることができない仙吉を見かけた貴族院の男(A)は、後に秤屋で仙吉を見つけ、鮨を奢る。

しかし、Aに見られていたことを知らない仙吉は「どうして鮨を食いたいことをAが知っているのか」という疑問から、Aは神様ではないかと思い始める。仙吉はつらいときはAのことを思い出しいつかまたAが自分の前に現れることを信じていた。

ちなみに本文の十節には「『Aの住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し残酷な気がしたため、ここで筆を擱く」というような擱筆の文が挿入されている。

かんそう

1.どのように感じたり、思ったりしたか。

2.作品のテーマは何か,作者は何を言いたかったか。

 

3.その他、言いたいこと、尋ねたいこと。

 

 

【資料】1.

伊達騒動  (ブログ「蘭鋳郎の日常」より抄録)

伊達騒動がおこったのは、仙台藩三代藩主・伊達綱宗の時代です。政宗の嫡男は秀宗ですが、彼は仙台藩を継がず、分家して、四国の伊予宇和島10万石の初代藩主となりました。

政宗の跡を継いで仙台藩の二代藩主となったのは、次男の忠宗です。彼は家康の娘を正室に迎えるなどして、父が作った仙台藩の基盤を固めました。

忠宗は嫡子の虎千代や次男の光宗を後継者にしようとしますが、いずれも病死しましたので、やむなく六男の綱宗を仙台藩の跡継ぎに指名しました。

忠宗の死後、綱宗は仙台藩三代藩主となります。しかしその時、彼は18歳で、経験も浅かったので、叔父で一関藩主の伊達宗勝(通称兵部)の過剰な干渉を受け、また綱宗を支えるべき家老たちも必ずしも一枚岩ではないなど、複雑な藩の運営を強いられます。このストレスから、綱宗は酒色に溺れたと言われています。

ある時、仙台藩は幕府から玉川の護岸工事を命じられ、総監督の綱宗は江戸に居続けました。その間に彼は吉原で遊ぶ事を覚え、湯水のように金を使いました。

叔父である伊達兵部は綱宗に度々諫言しましたが、綱宗が行いを改めないため、兵部は親戚大名である岡山藩主・池田氏や柳川藩主・立花氏と相談し、幕府の老中・酒井忠清に訴え出ます。これを受けて、幕府は綱宗に隠居を命じ、代わりに嫡男・亀千代に4代目藩主を相続するように命じます。この時、綱宗は21歳、亀千代はわずか2歳でした。だから、亀千代に政務をこなす事など無理です。幕府は、伊達兵部と綱宗の庶兄・田村右京(仙台藩の支藩・岩沼藩主)を亀千代の後見役に任命しました。

ところが、兵部は後見人になると、田村を追い落とし、権力を独り占めにします。そして次々と藩政改革に乗り出します。まず改革派の原田甲斐を家老に抜擢すると、仙台藩の中央集権化を図りました。しかし、これは古くからの家臣たちの強い反発を招きます。特に伊達本家とは親戚である湧谷(ゆうや)伊達家の伊達安芸宗重(だてあきむねしげ)が強硬な反対派でした。

伊達安芸ら改革反対派は、幕府に兵部の専横を訴え出たため、寛文11年、幕府による裁定が下される事になり、幕府大老となった酒井忠清の屋敷に、関係者が集められました。改革派の代表が原田甲斐、反対派の代表が伊達安芸です。裁定役、板倉内膳重昌の裁断により、安芸サイドが勝利。ところが、判決後、甲斐が乱心。抜刀して安芸に斬りかかります。安芸は絶命しますが、甲斐も安芸の家来に斬られ死にます。

 この騒動を受け、幕府は仙台藩に対して、以下の処断を下します。亀千代は幼年のため、お咎めなし。一方、伊達兵部は騒動の首謀者として一関藩(いちのせきはん)を召し上げられ、土佐藩に流罪となりました。

 

【資料】2.

『赤西蠣太』について 

(志賀直哉『創作余談』より)

伊達騒動の講談を読んでゐて想ひついた。講談ではこの小論の小江(さざえ)が触れれば落ちるといふ若いおさんどん風の女になってゐて、下等な感じで滑稽に使はれてゐたが、私は若し此女が実は賢い女で赤西蠣太が眞面目な人物である事を本統に見抜いてゐたらばといふ仮定をして、其処に主題を取って書いた。最初私は芝居や講談や徳川時代の小説の知識から、その時代らしく書くつもりで書いたが、私にはそれがハンディキャップになりうまくいかなかった。それから四五年して叉それを書くつもりで、旧稿を捜したが遂に見当たらず、人物の名も分らなくなったので、いい加減に作り、書き方も前にそれで失敗したから殊更さういふ事を無視した書き方をして見た。その後二年程して旧稿も原(もと)の講談も出て来たが、講談は典山(てんざん)で人物の名は蒲倉仁兵衛(かばのくらにへえ)といふのであった。所が更に近年聞いた所によると、此講談の作者は悟道軒圓王(ごどうけんえんぎょく)だといふ事だった。自分は伊達騒動などいふものは昔からのもので新しくさういふ風に自由に作られる事を知らなかった。最初からそれが同時代の創作と知ってゐれば私は此材料は使はない。自分がさういふ事に少しも気づかなかった事は手落ちで、圓玉には気の毒であった。圓玉の講談中の女中と此小説で書いた女中とは解釈が大分違ふ。此異ひは一方は所謂大衆対手、他はさうでないといふ所から来てゐる。所謂大衆といふものは私が現した女中よりも、圓王の現した女中の方を喜ぶらしい。若しさうとすれば、そして若しさういふのが大衆といふものであるならば、その大衆を目標にして、仕事をする事は自分には出来ない。己れを一人高くするといふ態度は不愉快であり、いやな趣味であるが、現在の大衆に迎合するやうな意識を多少でも持った仕事は娯楽にはなつても、仕事にはならない。

【資料】3.

『小僧の神様』について 

(志賀直哉『創作余談』より)

 屋台の寿司屋に小僧が入ってきて、一度持った寿司を値を言われ、また置いて出て行く。これだけが実際自分がその場に居合わせて見たことである。この短編には愛着をもっている。

 

(太宰治『如是我聞』より)

 この者(註・志賀直哉のこと)は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。

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