永六輔 『大往生』 解題 若林 孝之 2016.10.10


【永六輔の経歴】 (ウィキペディアより)

永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日―2016年7月7日)は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名は永 孝雄(えい たかお)。

1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永忠順(1900年 - 1991年)の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。

この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団のレビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学文学部を1952年に中退。

以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオ・パーソナリティとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。

1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落としたために番組を降ろされている。

1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。

1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。

1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。

2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ病の可能性もあるとラジオで語っている。

パーキンソン病の影響で歩行困難になり、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続して行った。

2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し、全レギュラー番組を降板した。2016年7月7日午後1時57分に、東京都内の自宅にて死去していたことが同月11日に発表された。83歳没。



【大往生の中の名言】    若林 孝之 撰

前書き

・みんな死ぬ知らないわけにはいかない。

・大往生とは死ぬことではない。逝って生きること。成仏とは死ぬのではなくて、仏になること。



【老い】


・人間今が一番若いんだよ。

・歳をとったら転ばない。風邪をひかない。食い過ぎない。これで10年は長生きする。

・若いと思えば若い。年寄りだと思えば年寄りなの。

・心の疲れたのは休んだから治るものじゃない。

・パーティーとか集会に参加するのが健康法。

・すてきなお爺さんがいるだけでお婆さんがいいお婆さんになる。

・「美しく老いる」じゃなくて「美しく老いる努力をすると美しく老いる場合がある」なんです。

・結局生きていくということは、気分を紛らわせていくということ。

・「ああいう老人になりたい」憧れられてこそ、本当の老人。くれぐれも「ああいう老人になりたくない」と云われないように。

・人生ね、あてにしちゃいけません。あてにするからがっかりしたり悩んだりするんです。あてにしなきゃこんなもんだで済むんじゃありませんか。

・老人は誰かて自分が老人だなんて思ってませんよ。

・時のたつのは早いなあと思うようになると、人生がわかってくるんだよ。

・しなやか、したたか、つややか、この三つが長持ちするコツ。

・子供叱るな来た道だもの。年寄り笑うな行く道だもの。これから通る今日の道、通り直しのできぬ道。


【病い】

・老いは平等だが、病いはその対応と処置によって、老いとは別の覚悟が必要になってくる。老いは受け入れればいいのだが、病は戦って勝たなければならない。

・人間ドックに行ってから急に体調が崩れることがある。

・無医村をなくそうと大量に医者が生まれました。そのツケがきてますね。

・日本人には命を見つめない。死を嫌うという伝統があるんです。

・ストレスはスパイスみたいなもんで、ストレスが全くないという人は、人間としてもお粗末です。

・医者は病気を直そうとする。しかし、大切なのは病人を直すことなのだ。

・西洋医学の薬で体に良いものを一つもありません。

・飲まなくていいから薬を受け取ってください。

・健康を追求するあまり、不健康になっちゃうでしょう。

・咳というのは自己防衛です。

・近代医学は200年、東洋医学は2000年。


死】

・ただ死ぬのは簡単なんだ。死んで見せなきゃ意味がないよ。

・別れる淋しさ、生きてきた虚しさ。それに耐えれば穏やかに死ねます。

・死ぬということは宇宙と一つになるということ。

・できるだけ死について、死者について話をするべきです。それが、死を受け入れるトレーニングになるんです。

・都会の子供たちが命の終わりを見届けチャンスはペットに代表されてしまう。

・葬式をしないという遺言を守って、そのあと弔問客の対応に疲れた遺族がいる。

・タタミの上で死ねたら憧れの死に方といえる。

・死ぬ前には、人間は炭酸ガスが増えるんです。それほど苦しまずに終わるようにできているです。

・死に方ってのは、行き方です。

・歳を取るとだんだん世の中がつまらなく見えてくるんですよ。つまらなくならなきゃ未練があって死ねやしません。

・死んだっていうからおかしいんだよ。先に行っただけなんだから。

・賀原夏子さんの言葉。「初めて死ぬのに、この経験が役者として役に立たないのが悔しい。」

・死んだら他人の世話になるんだから、生きている間に他人の世話をしとかなきゃね。

・遺書を書いてみると、自分が何を大切にしているかも確認できるから。


【仲間

・坂本九は、いつも「太平洋戦争が始まってすぐ生まれたんです」と言っていた。没後50年のイベントの打ち合わせのたびに、「九がいればなあ」と思う。戦争では死にたくない。その思いを九に託せたのにと思う。

・淀川長治さんは、新年になると、「今年はいつ死ぬ」と予告する。桜の満開の時だったり、紅葉の時期だったりする。淀川さんは西行法師の心境なのである。「願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」続古今集

・終わりまで読む前に声が出なくなってしまった一行。「南ニ死ニソウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイイトイヒ」

・いずみたく追悼の番組で・・・いずみさん最後に菊地寛さんの言葉巌・・・

「死者老いず生者老いゆく恨みかな」


【楽しい生き方・正しい死に方】

・自分の信じるものを持っている人の場合には、死を納得させることができる。

・生きている目的は死ぬことですよ。今死んでも大丈夫なように生きるしかないですよ。

・自分に関わってくれた人たちに感謝して死ねる。そういう死に方ができればいい。

・宗教を信じている人はいろんな状況を乗り越えて最後を迎えます。特定の宗教を持たなくても周りの人たちと生きることを共有してきた場合には、お互いにその
場で信じあえるという状況が生まれる。

・結局何もなかったんだ、そして消えて行くんだみたいな感覚で亡くなっていく方もいるように思う。

・何が人間として正しいことなのかと目覚めたときに、だんだん死を許容できる状態が出てくる。



【幸せな死に方、看取り方

・学校で死をとらえる教育が必要なはずだ。

・気持ちの高ぶった状態のもとで死にたい。何かのために戦っているというそんな状況での死に方に憧れますね。

・残された者に何らかのメッセージを託せたら、とても素晴らしい。

・死は自然の道筋の上にあるもの。家族に「いい人生だったね」とお祝いしてもらって、素直に「さようなら」といえたら、とても安らかな死だろう。

・ひとつの命が終わるというのはセレモニーだと思う。


【絶筆 永忠順】

・持論: 源氏物語と仏教思想の関わりの深さが世の現代語訳では、あまり捉えられてはいない。

・無量寿経に「生の従来するところ死の趣向するところを知らず」とある。

・私自身の死が迫って来ていることだけは事実なんだから、死に対する自分の態度が昔と違ってきているのは確かである。死を超えてというよりも死と仲良くしていきたいのである。



【絶筆に寄せて】

・「借りたら返す」という父の言葉を詞にしたことがある。

  生きていることは誰かに借りをつくること

  生きてゆくということは その借りを返してゆくこと

  誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうしてもらったように

  誰かにそうしてあげよう


 人は死にます 必ず死にます

 その時に生まれてきてよかった

 生きてきてよかったと思いながら

 死ぬことができるでしょうか

 そう思って死ぬことを大往生といいます

 私がこの世に生まれ、私がこの世を去る

 あなたがこの世に生まれあなたがこの世を去る

 その時 明日がある その時 未来がある

 そこに生きるものの歌がある


【読後感】   若林 孝之

・多くの人の言葉の羅列で始まった書。

・著者の姿が見え隠れする。しかし読み終わってみると、それなりにまとまった考え、-「生き方」「死に方」が提示されていたように思う。

・正直のところこういう書き方の本は、苦手で、うまく纏めることができなかった。従って、琴線に触れた言葉を順を追って並べてみた。要約にはなっていない。しかし、死について考える一つの手がかりにはなったようである。

・ジタバタせずに「従容として死を迎える」ことを願ってはいるが、果たしてどうなるのか。「無量寿経」ですらわからないと言っている。やはり成り行きに任せるほかないか。

・解題を書き損ねたことを、改めてお詫びする。


【わたしの感想】   川地 元康

永六輔さんが亡くなり、私たちの年代に切実な死を考えさせる、まことにタイミングの良い本を選んでいただきありがとうございます。ユーモアや皮肉や逆説の効いた文章で、テーマが死なのに楽しく読めました。

特に気に入った文章を、抜き出しました。

・「煙草、酒、こんなにおいしいものをやめると、体に良くないよ」,

・「年を取ったら女房の悪口を言っちゃあいけません、ひたすら感謝する、これは愛情じゃありません、生きる知恵です」、

・「つらいことが何もないということがかえって辛いんでございます、つらいことがないもんでうれしいことがないんです」、

・「私の障害は一級一種です、障害者の中ではエライんです」、

・「病人が集まると、病気の自慢をするんですよね、もちろん重い人が尊敬されるんです」、

・「薬が効かない時は医者に文句を言うべきです、効かないからって医者を替えちゃいけない、医者に文句をつけるのが大切なんです」、

・「八十を過ぎたらなんだか医者の扱いに手抜きが見えてくるよ、だって死んだって文句の言えないトシだからね」、

などは思わず笑ってしまいました。

六輔さんは、いずみたくさん、中村八大さんと、友達だったのですね、大作曲家だったお二人が、作曲出来なくて苦しんだことがあり、つい酒浸りの生活をされたのを知りました。新しいものを生み出すことの苦労を思い知らされました。 

死に行く人の心が何によって救われるかが書かれていました。かたい信仰を持っている人は救われやすいこと、信仰を持っていない人は、周りの人たちとの深い愛によって救われると、終末医療の人が言ったことが気をひきました。

仏教が一般の人が読めない、読経仏教になってしまい、それで日本人は信仰を持ってない人が多いと書いてあり、私もそういうところもあると思いました。信仰と愛が自分の死を受け入れる力になると書かれていて、心ひかれました。 

日本人は生きていることを信用しないで、ここにあるのは幻で、人の体もうつせみで、この瞬間もうたかたの夢のまた夢、死は信じてない生を放棄することで、そこは空であると、友もお金も信用できなく、結局何もなくて、消えてゆくのだ、みたいな感覚で亡くなる人もいるみたいです。そんな考えもあるのかと、少し淋しく感じました。 

それからがんの告知の問題、スパゲティ状態の死の問題、患者が自分の死を正確に感じたときどうするか、など考えさせられました。

私は4人の親を見取りました。父は60年以上前にがんで亡くなりました。まだ医療が発達してなく、痛みに苦しみ抜きなくなりました。父の姿を見て、私は死に恐怖を感じるようになりました。 

それから義父をやはりがんで亡くしました。昔と違い医者ははっきりがんだといいました。父はすべての治療を断り、逢いたい人に会うために故郷を訪ね、入院も断り、朝家族の許でなくなっているのを発見されました。私には悠然と死を受け入れたと見えました。ある時怖くないですか、と尋ねると、昔戦地で42度の熱が出て、医者が明日まで持たないと言うのが聞こえたそうですが、そのとき、死ぬってこんな感じなのだと思ったそうです。それは苦しくもなくむしろ落ち着いて、幸福な感じがしたそうです。だから怖くないよ、と言いました。死は苦しくないとの確信と、家族に囲まれることにより、死を受け入れることが出来たと思いました。

義理の母もがんでした。母は治療を受け入れ、2年生きました。放射線と制癌剤です。母も不仲の兄と涙の仲直りをしました。身の回りの整理、財産をそれぞれ分け、子供たちと思い出話をするのが楽しそうでした。息を引き取ったとき、苦しみもなく、本当に嬉しそうに、にっこり笑いました。きっと先に亡くなった夫に会ったのだと、そのとき感じました。がんで死ぬのが、人の誇りにふさわしいと、この本にあったように、見事に死を受け入れ、秘密がなにも無く、家族となんでも話せて、とてもよかったと思いました。 

実の母はがんではなく、老衰でした。母は私も妻も誰だかわからなくなっていました。でもどうかすると、回路がつながることがありました。そんな時は、二人の思い出話をすると目を輝かせ、喜びました。体が弱りほとんどうつらうつら寝ているようになりました。見舞いに行くと、しばらく手を握り、そばに座っているだけになりました。 

あるときいつも通り、手を握りますと、目を開きました。今しかないと思い、母一人で私を苦労して育てくれたお礼と、母に逆らってばかりいた、青春時代を詫び、とても感謝しているといいました。じっと私を食い入るように見つめ、にっこり笑いました。目の輝きで回路がつながっていると感じました。それからはもう意識を回復することはなく、母はなくなりました。どんなにぼけていても、コンタクトを続ければ、心がつながることも有るのだと感じました。母に感謝が言えてほんとによかったです。話したことで悲しみが随分和らぎました。母は死を受け入れ、苦しみはなかったと思います。主治医は一秒でも長く生かすのが医者の務めだと固く信じていました。何も言えなかったです。スパゲティ状態の死でした。


【わたしの感想】   安藤 邦男 (自分史の文章「死への心の準備」より)

読書会で永六輔の『大往生』という本を読むというので、近くの公園にやってきた巡回図書館で借り、その場でパラパラとページをめくっていたら、こんな文章が目にとまった。

 ・八十を過ぎたら、なんだか医者の扱いに手抜きが見えてくる。

そうか、あの耳鼻科の医者が鼻の手術を拒んだのは手抜きだったのか。さらに次の文章もあった。

 ・タフですねと言われるようになったら、身体に気をつけなさいよ。

「いつも元気ですね」といわれて、悦に入っていた自分が恥ずかしかった。妻が言ったように、もう歳ですから気をつけなさいという裏の意味が読み取れなかったのだ。

 ・あの人はいい人だって言うと、その人はいい人になる努力をするんですね。 

これ、自分のことかと思った。褒められ煽てられると、人はその褒め言葉に迎合し、期待を裏切らぬよう努力するものだ。「優しい人ですね」と言われて、わたしもそれなりの品位を保つようにしてきた。それはいい。ただ、続く一文がショックだった。

 ・それで早死にするんです。

これって、期待させておいて、それを裏切る逆転の発想ではないか。ことわざの常套手段だ。「憎まれっ子世に憚る」の反対である。西洋のことわざにいう「神に愛される者は若死にする」と同じだ。なんとまあ、穿った見方をする本だ。でも、用心を呼びかけているのに変わりはない。さらに、皮肉な言葉がつづく。

 ・病人が集まると、病気の自慢をするんですよ。もちろん、重い人が尊敬されるんです。

 ・ある人は、ガンは人間の誇りにもっとも相応しいという。

ガンはいわば百病の王である。肺炎で死ぬより、ガンで死んだほうが立派に見える。そんなガン細胞を体内に持っているだけで、人は名誉に思うのだろう。ましてガンを克服したとなると、この上もない誇りである。十数年前、前立腺ガンの手術ミスから生還したわたし自身も、ときどきそう思ったことがある。わたしが日ごろ口にする「六病息災」も、おのれの病気を自慢したい気持ちの表れかも知れない。

さて、家に帰ってゆっくり読み始めると、この『大往生』には生老病死について、永六輔をはじめ、さまざまな人たちの名言が次々と出てくる。多くの人が自分の老と向き合い、やがて訪れる死を誠実に受け止めようとする態度に心打たれた。

タイトルの「大往生」という言葉が、至るところに出てくる。

 ・当人が死んじゃったということに気がついていないのが、大往生だろうね。

知らないうちに死んでいる、これは、わたしが理想としていた死に方と一致している。

わたしの父は一年ほど病床で苦しみ、苦しんだあげく、最後は意識のないまま、わたしの目の前で亡くなった。だが、父の弟である叔父は、朝起きて、夜中に飲んだお茶のセットをキッチンへ運ぶ途中の渡り廊下で、ひざまずいたまま事切れた。まさか死ぬとは考えたこともないままの死であった。この叔父のように死ねたらいい、とわたしはつねづね思っていた。

しかし、よく考えてみれば、こんな死に方は、本人にとってはいいかもしれないが、周りの者には大きな迷惑をかけることになる。死は本人だけでなく、後に残された者の問題でもある。

突然死は、心身の不調によるものだけではない。地震、台風、交通事故など、死の危険は至るところにある。そんな死に遭遇したとき、家族はどうなるのか。その疑問には、次の文章が答えてくれる。


 ・アメリカの企業の責任者は八十五パーセントが遺言状を書き、日本では八十五パーセントが無関心だという。

 ・遺言状を書いてみると自分が何を大切に生きているかも確認できるから、この本を読み終わったらすぐにでも(書きなさい)!

しかし、いつも書こうと思いながら書けないのが、遺言状である。当時六十歳そこそこの永六輔も、対談している山崎章郎医師も、まだ書いていないという、なぜなら、まだ死なないと思っているからだとあった。だが、八十二歳で逝った彼は、もう死なないとは思っていなかったはずだから、たぶん書いていたであろう。彼の年齢をはるかに超したわたしは、「すぐにでも」書かねばならないとは思うのだが―、悲しいことに、なかなかできない。

 ・最後のときに頼るものは、海外では宗教が50%ですが、日本では半分以上が財産だという。

多くの日本人は、たとえ遺言状を書かなくても、わずかながら残すべきものがあれば、それが遺族の支えになると思い、安んじて死んでいくかもも知れない。

ただ、いまだに遺言状を書いていない身がいうのは、言い訳がましいが、私的な遺書めいたものは残してある。自分史である。エンディングノートほどきちんとしていないが、家族や子孫はわたしのこれまでの生き様や気持ちを読みとってくれるはずである。それは、物質的財産ではないが、心の財産ではある。

永六輔が自分の父を偲んで詠んだ詩も、このこととは無関係ではないだろう。

 生きているということは
 
 誰かに借りをつくること

 生きてゆくということは

 その借りを返してゆくこと

 誰かに借りたら

 誰かに返そう

 誰かにそうしてもらったように

 誰かにそうしてあげよう
 
人は生きていること自体に感謝するという。感謝は大切なことである。ただ、それは言葉だけであってはならないだろう。感謝に値することをしてもらったら、相手に感謝してもらうだけのことをしてあげようと、この詩はいう。感謝は言葉でなく、行為で表そうというのだ。

 生きているうちはそれができる。だが死んでいく自分のできることは何か。それは世話になった人に、自分の残したもののなにがしかを贈ることではないか。
 ところで人間は、病床にあっていよいよ死が目前に迫ったとき、どのように思い、どのような反応を示すであろうか。心を打つフレーズがいくつかある。 

 ・大往生というのは死ぬことではない。往って生きることである。西方浄土に往って生まれるのだ。

なるほどと思う。生きることが死を見据えてのことならば、死ぬることは生きることの連続である。そのように悟ることができれば、いたずらに死を怖れることはないし、また宮沢賢治の詩にあるように、「死にそうな人があれば、行ってこわがらなくていい」と、勇気づけることができるだろう。

ここに、死をまったく怖れていない人がいた。黒柳徹子の語る女優賀原夏子(かはらなつこ)である。

 ・ガンで亡くなった女優の賀原夏子さんは、『いよいよ死ぬと思うとドキドキする、初めてのことって面白い』と仰っていたそうです。

怖れるどころか、感動しながら死を迎えている。人間は、死だけは経験することはできないのだが、彼女は違う。死を経験として受け入れた上で、演技に生かそうとする、見事な役者魂である。何が彼女をそうさせたのか。彼女は「いよいよ死ぬと思う」といっているが、実は本当には死ぬとは思っていないのではないか。同じ疑問を永六輔も持ったようだ。彼は山崎章郎医師との対談で、こう尋ねている。

 ・自分が死を迎えるとき、『さあ死ぬぞ』と意識するものですか。

山崎医師の答えは、およそ次のようであった。ある三十五歳の女性は、乳がんの再発で酸素呼吸器をつけながらも、死の二日前までは退院後にしたいことを語っていた。しかし亡くなる一日前になると、死期を悟り、家族に最後の言葉を言い残し安らかに逝ったという。人間は、最後の土壇場になってようやく自分の死を認めるが、それまでは何とか生きたいと願うものかも知れない。

山崎医師は続けて語る。

 ・日本人は信仰を持っていない。だから何で救われるかというと、患者と周りの人たちとの深い友情関係から生まれる『愛』で救われるのではないか。

神の国へ行けると信ずることがキリスト教徒の救いとなるが、極楽浄土を信じない日本人にとって救いとなるのは、取り巻く家族や親しき者との間にきづかれた愛の絆である。愛があるからこそ、死に臨んで安らかな大往生を遂げることができるというのである。

最後に永六輔は、次の詩を書いている。

 人は必ず死にます

 そのときに生まれてきてよかった

 生きていてよかったと思いながら

 死ぬことができるでしょうか

 そう思って死ぬことを

 大往生といいます

いま思い起こせば、楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、満足なこと、得意になったことなどいろいろあった。だが同じように、苦しいこと、厭なこと、悲しいこと、不満なこと、恥ずかしいことなど、それに劣らず多々あった。在りし日々を彩ったこれらの光と影は、いまや一体となって絵巻物のように脳裏に蘇る。わが人生に悔いはなかった! 

それをもし大往生と呼ぶならば、わたしにもそんな死に方ができるかも知れない。  (平成二十八年十一月作品)