田宮虎彦 『絵本』 報告 清水悦子
              
2016.11.14

【あらすじ】

 「私」大学に入学したばかり。2食つき12円50銭の麻布霞町崖下の下宿に住む。父に逆らって家を出た。母が1、2ケ月に1回、5円を父に隠れて送金してくれる金では足りずに謄写版の原紙きりの仕事をして生活。母は大学を出ることを楽しみにしている。家主も貧しく、13歳の長男は脊髄カリエスで寝たきり。絹糸のように細く美しい声をしている。

 隣室にはリューマチの持病がある新聞配達の中学生、福井義治がいて郷里の母から黒砂糖等が届くと分けてくれる。福井の父は兄(長男)が戦争で捕虜になり銃殺されたのを悲しんで死亡。母は妹や弟を連れて田舎の親戚を頼るが、捕虜が原因で小学教師の資格があっても就職できない。それでも日用品などを送ってくる。

 原紙きりの仕事は端物が多く、少しの金にしかならない。独語の知識があることで病院の仕事をするが、すぐ破れてしまいサービスで再度行うことになる。  

 家主が会社の同僚を飲酒でもてなし老婆(義母)が罵る。家主は失業。「私」肋膜が再発。生活に追われ、教授に失望して大学には行かないようになるが卒業はしたい。友人の西野に借金を申し込むが嘲笑って貸してくれない。彼の本棚にはマルクスエンゲルス全集などがあった。
 福井が追いはぎをしたとして警察につかまる。真犯人がつかまり釈放されるが、警察で「兄が捕虜なら貴様は赤だろう」と暴行を受けた。2日たち、福井は青山墓地の槐の木の下で縊死。中学生がいなくなり夜になると耐え難い淋しさが重くのしかかり下宿を出た。夏の間、画家のアトリエで留守居の仕事をすることになり、食費のほかに月10円の謝礼が出る。2円でアンデルセンの童話の美しい絵本を買って少年に渡した。

       (1950年6月発表。翌年毎日出版文化賞受賞。


【田宮虎彦について】
   清水 悦子

「足摺岬」(1949年10月発表)
 自殺を考える「私」が、老いた遍路や薬売り、「清水屋」のおかみ、娘八重などとの交流の中で、次第に生への希望を持つようになったように、暗いエピソードが続いた中で、アンデルセンの童話の絵本にかすかな希望を託している。

 絹糸のように細く美しい声の少年は、貧困の中でも世の汚れに染まらないきらりと光る純な心をあらわし、それがあれば生きていけるという作者の強い願いではないだろうか。


〈父との葛藤
  船員の父は病気の田宮に対して怠け者ときめつけ、反発して家出同様に進学。作品にも書いている。「異母兄弟」の陸軍大尉鬼頭範太郎にも父を投影している。

〈友人〉
 京都の第三高等学校文科甲類で森本薫(「女の一生」)と、東京帝国大学国文学科で花森安治と同級。花森とは、3年生で転入した神戸の雲中小学校でも同級。「足摺岬」「異端の子」の装丁は花森。

「愛のかたみ」 妻千代と共著 1957年
 妻千代を亡くした直後の思いやかわした手紙をもとに出版。ベストセラーになる。文芸評論家平野謙が、夫婦観や文学観を「変態的」と批判した。

 再読すると、結婚前の熱烈なラブレターもあり、まさに愛の手紙である。文学者の往復書簡として有名な宮本百合子と顕治の「12年の手紙」は高度な文学性、政治性があるが、それとは違い非常に庶民的。愛の表現に千代は手紙の最後に赤い唇を押しているほど。千代は体が弱く、医師から結婚を認められないほどだった。ふたりのこどもの世話、家事などの合間に、田宮の小説を最初に読んだり、夜遅くまで清書する。

田宮は「私の作品は千代の作品であった。すべての私の作品が千代との合作といってよかったと思う。私と私の作品と千代とは一つであった。私と千代がかわしあい、とけあった愛情と同じもの、それが私の作品なのだ」と書いた。

体が弱いため「大事にする」と言いながら、反故にしたようで、しかもそれを千代の愛情のゆえとして、田宮が甘えていることに違和感を覚える。しかし、ふたりの愛は何があってもゆるがないという強い絆を感じた。18年と4カ月あまりの結婚生活だった。

                                  

【報告者の感想】   清水 悦子

 見事な短編。怒りが激しく語られることはない。諄々と染み入るように静かな文章。自由な思想が制圧されつつある「暗い時代」。貧困や世の中の矛盾、まじめに生きる人々が思うように生きられない哀しみが伝わり、静かな感動をもたらす。少年との別れに余韻を残す。

 格差社会といわれる今日、この作品は、現代人にも深く迫ってくる。

 原紙きりで糊口をしのぐ「私」。追いはぎと間違えられ、警察で兄のことまで持ち出され暴行を受け、未来への希望を失くして自死する福井。狭い部屋を区切って下宿にして生活費の足しにしようとする下宿屋。部屋を貸しているから裕福かと思えば、50銭を値引きするだけでも生活に影響する。

 これらの貧困層に対して、西野や贅沢なヨーロッパ留学をした大学教授の富裕層がいる。マルクスエンゲルス全集を持つ西野は観念的社会主義者?であり、「人民文庫」の無届集会で検挙され、以後、運動と離れる作者の、周囲の人々への複雑な思いが表れたのではないだろうか。

                                         「レジュメ 終わり」


【みんなの感想】   記録: 安藤 邦男


時代の暗さについて

・全体の印象としては、この小説はまことに暗い。

・一つには日中戦争の開始に向かう時代背景に由来する。昭和8年の滝川事件など、自由主義思想も弾圧される時代であった。

・自分の親戚にも逮捕された人がいたので、その時代が偲ばれる。

・「私」の下宿先の中学生もその兄が捕虜になったことが原因でから社会から爪弾きされたことなど、そんな社会の不合理には義憤や憤りを感じる。

・そんな時代や人間に対して、そもそも人間はそんなだから、むしろ可哀想に思えて許してやりたい気がする。

格差の激しさについて

・現代にも通じる格差社会の酷さ、非人間性は強い印象を与えるである。

・大学生の「私」と友人の西野に見られる貧富の差、教授の遊学先での乱行などひどい。

・ガリ版を切りながらその日暮らしをする「私」など、社会の矛盾が浮き彫りにされている。

・著者はそのような社会のあり方に対して、もっと思想的に掘り下げて欲しかった。

・格差は精神的なものにも及んで、幸福な者と不幸な者の差も激しい気がする。

絵本について

・題名の「絵本」の意味は何かと読み進むと最後にやっと「絵本」が出てきたが、これは何故かと疑問を持った。

・カリエスの少年はこれで希望が持てた。また暗い話の最後に、美しい童話が出てきて読者は救われた。

・なぜアンデルセンかというと、マッチ売りの少女の灯すマッチの明るさが小説の暗さを相殺したと思う。

・また絵本の色彩の明るさが暗さを輝かせた。

2円という童話の贈り物は高価すぎるが、下宿屋への贖罪の気持ちの表れではないか。

・暗さに対する希望の火とも読める

その他について

・下宿で寝たきりのカリエス少年が、素直で明るいのに救いを感じた。

・中学生の兄の銃殺は中国軍によるものか、日本軍によるものか。中国軍だと思う。

・いや、捕虜となったことを許せない日本軍がしたと思う。

・「足摺岬」のほうが好きだ。

・小学校時代、病身で一年休学したとき、従兄弟の学生に『風の又三郎』をもらった想い出と重なる。


【わたしの感想】  川地 元康

 悲しい物語でした。よく似た2人と一家族が出てきました。ともに悲しい過去を持ち、生活苦の現在に苦しみ、先の希望を見いだせない、あまりにも悲しい物語でした。

広瀬隆剛(たかよし)一家は、昔、裕福な一家でしたが、だまされ財産を失い、たぶん東京に逃げてきたのでしょう。お坊ちゃん育ちの主人は働きに出てもうまく立ち回れなく、営業の歩合給なのか、収入がほとんどなく、奥さんとおばあちゃんの働き、部屋を貸すことによる収入に頼っているようです。しかも病気の長男を抱え、主人公に50銭まけるのでさえ、へたり込んでしまう程、生活は困窮していました。

主人は何とか会社での立場をよくしようと、同僚を家に呼び一席設けたようです。サラリーマンなら気持ちはよくわかります。でも生活苦に苦しむおばあちゃんには、主人が御馳走を食べ、お酒を飲み、楽しく歌い、話すのが許せなかったようです。こんなに貧乏に成ったのは、主人のせいだと思っているおばあちゃんが、主人を口汚くなじる気持ちは、よく分かります。
 
 長男がだれも悪く無いといったのが、とても悲しく、哀れでした。たぶん騙した人が一番悪いのでしょうが。さらに哀れなのは、中学生の福井君でした。兄が捕虜の辱めを受けたことにより、世間の非難を浴びたお父さんが悩んだ末の病気で亡くなり、母が赤のレッテルを貼られました。そのため就職がままならず、田舎に引き上げ、たった一人病を抱えながら、働いて学校へ通っていました。しかし、ある時盗みの疑いでつかまり、調査の結果兄の事がわかり、お前も赤に違いないと拷問を受けました。務め先に連絡が行き、解雇されたのか、学校に連絡が行き、退学になったのかわかりませんが、世の中に絶望して生きる意欲を失ったのでしょうか、自殺してしまいました。最悪の結果に、私はただ暗く悲しい気持ちになりました。

主人公は父の暴力に耐えきれず家を出たけれど、生活に追われ夜通し働いても、授業料が払えない生活に次第に追い詰められ、学校の授業にも出ないことも多くなり、体の不調も重なり、大学を卒業出来るかどうかの、明日の見えない毎日を送っています。 

主人公は次第に、金持ちの同僚新野と大学教授に敵意を抱くようになり、自分の父や、中学生を拷問した警察、失敗を執拗に非難し続けた印刷会社の上司の言葉の暴力、など権力者の横暴、暴力に対する敵意、さらに世の中の仕組み全部に敵意を持つようになっていったみたいです。非常に救いの無い悲しい物語でした。  

 私は小さいころ父を亡くし、日の当たらない暗い長屋に住んでいました。そこはやはり貧しさゆえに、栄養不足で結核やカリエスで寝ている人がいました。ただでも貧しいのに病人が出ると、さらに一家を苦しめます。でも私が育った頃は、薬が入ってきて、結核やカリエスも治るようになって行きました。働けば何とか食べていけて、少しずつ給料も上がり、将来はもう少しましな生活ができる希望が持てました。

 物語に出てくる人達は将来に希望が持てない悲しい物語でした。 

 下宿先一家の長男の少年の澄んだ目、美しい声、そのころは不治のカリエスで寝たきりですが、自分の運命を受け入れ、人をうらやんだり恨んだりせず、人を思いやることが出来る少年に、僅かの収入から2円出し本を買ってあげたことで、主人公の少年に抱いた好意が分かります。この救いの無い暗い物語に美しい花を添え、救いになっていました。 

 作者は物語を通じ、貧富の差の理不尽さ、権力を持つ者の横暴さ、捕虜になった人への世間の蔑みの理不尽さ、貧困からくる劣悪な環境、過酷な労働や食事の貧しさが病気をもたらすこと、さらに貧困が人々から誇りや希望を奪ってしまうことを、訴えているように感じました。 

 作者は貧富の差、世の不平等や権力者の横暴、戦争の理不尽さに敵意を持っているようです。でも弱者に対しては優しい感情を持っていることを感じました。 

 私は、社会の不公平さや理不尽さに悲しみは感じますが、怒りは感じません。なぜなら、人間は平安を求めながら変化を欲しがり、平和を求めながら戦争の興奮も大好きな所があり、矛盾した存在です。だから世の中も必ず矛盾を含んでいると思っています。 

 どんなに改善してもまた新たな不公平や、矛盾が出てくると思っています。冷静に仕組みを考え、問題点を改善する努力は必要ですが、誰かを犯人や悪者にすること、世の中の仕組みに敵意を持つことには反対です。おそらく改善しても、改善しても、問題が出てきて、永遠に続いてゆく気がしています。                                 
                                       【終わり】