志賀直哉 『城の崎にて』

              2013・12・9  清水悦子

1.あらすじ

山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をしたわたしは、養生のためにひとりで城崎温泉へ出かけた。ひとりきりで話相手がいないため、読むか書くか部屋の前の椅子に腰かけて山や往来を見ているか散歩する。死ぬ筈だったのを助かった。しなければならぬ仕事がある、と感じたかったが、「何かしら死に対する親しみが起こっていた」

 蜂が死んでいた。その静かさに親しみを感じる。以前、小説「范の犯罪」を書いた。范の気持ちを主にして書いたが、今はその妻の気持ちを主にし、殺されて墓の下にいる静かさを書きたいと思った。しかし、書かなかった。

 散歩に行く途中、円山川で橋や岸に人が立って騒いでいる。大きな鼠が一生懸命に泳いで逃げようとしているが、首に七寸ばかりの魚串が刺し貫してある。石垣へ這い上がろうとするが子供や車夫が石を投げる。どうかして助かろうとするができない。鼠の最後を見る気がしなかった。死ぬに決まった運命を担いながら全力を尽くして逃げ廻る。寂しい嫌な気持ちになった。

 桑の木のひとつの葉が動く。イモリを狙うつもりはなかったのに殺してしまった。自分は偶然に死ななかったのにイモリは偶然に死んだ。蜂、鼠は死んだが自分は歩いている。感謝しなければすまぬのに喜びの感じは湧き上がってこない。生きていることと死んで了っている事と両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。3週間いてそこを去った。脊椎カリエスにならずに助かった。

 

2.感想

冷静、客観的に対象を見ている。観察が鋭い。蜂、鼠、イモリは死ぬ。自分は怪我をしたのに生きている。対比する中で、生と死を描いている。

普通は、これらの死を見て生への執着を書くところであるが、そうではなく、淡々と、人生を悟ったかのようである。

 3年以上経って、脊椎カリエスにならずに済んだ安堵感から書くことができた。

 <里見クへの手紙で「憂鬱という事は活気の反対のやうだが、浮かれ気分でゐるよりどんなに気持ちがいい安固な気分だらう。僕は今表面には新婚者らしい浮かれ気分もあるが、その奥には静かな憂鬱がある。それに僕は望みを置いてゐる」

 大怪我の経験から死と生の凝視による自然との交感。この短編の底を流れるものは蜂、鼠、イモリ等に対する共感や同情ではなく彼らのはかない生死の暗示する人間の生命の脆さに対する謙抑な畏怖であり、〜誇張や感傷に陥りやすい題材を扱いながらその危険をまったく感じさせないのは、その基調をなす交感の自然による> (中村光夫)

3.他の作品

 「小僧の神様」「范の犯罪」「赤西蠣太」「清兵衛と瓢箪」「邦子」など。「暗夜行路」(唯一の長編)

 

4.他の作家の評価

武田泰淳「暗夜行路の結びの一節の美しさ」。他の作家も同じ「美と永遠を表現しなければならない」

<「助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分は此人を離れず、何所までも此人に隋いて行くのだ」といふやうな事を切に思ひつづけた。>

小林秀雄「日常生活の理論がそのまま制作上の理論である私小説の道を潔癖に一途に辿った作家」

大岡昇平「明治以来の長編で何かひとつとれという問いに対して、暗夜行路をあげている」

瀧井孝作、尾崎一雄、阿川弘之、網野菊などが直接の導きを受けた。

小林多喜二は大変尊敬し、1929年(S6)、書簡の往復をして奈良の志賀邸を訪問している。

 

5.影響を受けた人

   師としては内村鑑三、友としては武者小路実篤、身内では祖父直道をあげている。

 「その人の人間が私の人間に影響したといふ意味で、若しその人との接触がなかったら、自分はもっと生涯で無駄な廻り道をしてゐたかも知れないといふことが考へられる、さういふ人達」(「内村鑑三先生の憶ひ出」)

  内村鑑三「正しきものを憧れ、不正虚偽を憎む」ことを教え、倫理的骨格を作った。

  武者小路実篤: 親友。芸術の上で同盟者、先達の役割を果たした。

  祖父直道: 二宮尊徳の弟子。「報恩」。明治の新しい利益社会に入らず、旧藩主の家令
  として 献身的に勤めた。



6.白樺派

  日本近代文学の一派。大正デモクラシ―など自由主義の空気を背景に、人道主義、理想
 主義、個人主義的な作品を制作。学習院長乃木希典の武士道に反発した  同大の
学生
、志賀、武者小路を中心に1910年に発刊した「白樺」を中心に活動。

 

7.奈良の志賀邸旧居

 奈良市高畑にある1920年建築の木造、数寄屋造。多くの作家、画家らが集まり、高畑サロンと言われた。現在、奈良文化女子短大のセミナーハウス。見学可能。「暗夜行路」をここで書いた。


  
志賀直哉主な年譜(現代日本文学大系・筑摩書房による) 

 1883M16)宮城県で二男として出生。長男は夭折。父は第一銀行石巻支店に勤務。 
 1885
M18)父が退職し、一家は上京して祖父母宅に同居。父は総武鉄道等の取締
   役等で
裕福。祖父は相馬藩の旧藩士で当時、相馬家の再興のため相馬家の家
   令とし
て足尾銅山の開発を行った。

 1889M22)学習院初等科に入学。 
 1893M26)旧藩士が旧藩主の死因を毒殺と主張し、祖父らを告発したため75日、
       未決
につながれた。墳墓の発掘、死体解剖の結果毒殺の疑いが晴れた。
 1895M28)学習院初等科に進んだ。8月末母が悪阻の為死亡。秋、24歳の母を
       迎えた。

 1897M30)父が次第に実業界で重きをなし、麻布へ転居。 
 1900M33)夏、内村鑑三を訪問。その後7年間出入りした。
 1901M34)足尾銅山鉱毒問題で世間が騒ぎ、友人たちと視察に行こうとして父と
       衝突。
不和になる最初の契機。
 1902M35)中等科卒業の時、落第して武者小路実篤、木下利玄らと同級になる。
 1903M36)学習院高等科に進む。学習院校友会雑誌に、行軍記事などを投稿。
 1904M37)「菜の花と小娘」この頃から一生の仕事として小説の創作を志した。
 1906M39)祖父が80歳で死去。東京帝国大文学部英文科入学。里見クと親しくなる。
 1907M40)8月、自家の女中と結婚を決意し、9月から10月にかけて反対する父、
       祖
母、義母らと争う。父との不和は極点に達する。結婚は実現せず。
 1910M43)武者小路実篤、有島武郎らと、同人誌「白樺」創刊。中川一政、梅原隆三郎
       らも参加。大学を正式に退学し徴兵検査を受け甲種合格するも、耳に疾患
       あり、免除。

 1912M45T元)「大津順吉」父との不和から家を出て京都滞在後、尾道で暮らす。 
 1913T2)1月、「清兵衛と瓢箪」。8月、山の手線の電車にはねられ負傷、入院。
       退院後、
城崎温泉で養生。10月「范の犯罪」
 1914T3) 夏、伯耆大山に登山。12月、武者小路実篤の叔父の娘と結婚。父が反対。
 1915T4)2月、みずからすすんで父の家から除籍。別に一家を創設。
 1917T6)3年間の沈黙を経て5月、「城の崎にて」8月、父との不和解ける。「赤西蠣太」
 1920T9)「小僧の神様」
 1921T10)「暗夜行路」前篇
 1923T12)「暗夜行路」後編(完成は1937S12年4月)有島武郎自殺。
 1927S2)「邦子」
 1933S8)小林多喜二が拷問死。母宛に、弔辞を出す。
 1949S24)文化勲章受章
 1971S46)死去 *こどもは2男7女。ふたりは夭折。

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