レジメ 藤原てい『流れる星は生きている』 朗読 安藤なが子 H.20187.12.11

【藤原ていの略歴】(ウィキペディアその他による)

 ・藤原ていは日本の作家。夫は作家の新田次郎、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。

1918年:116日長野県茅野市に生まれる。

長野県立諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高等学校)卒業。

1939年:新田次郎と結婚。

1943年:新京の気象台に赴任する夫と共に満州に渡る。

1945年:夫を一時残して子供を連れ満州より引き揚げ、帰国後しばらくして新田次郎も帰国。

帰国後、遺書のつもりでその体験をもとに、小説として記した『流れる星は生きている』はベストセラーとなった。一部創作も含まれている。

1982年:TBSの『愛の劇場』でドラマ化された。

1974年~1997年:読売新聞「人生案内」の回答者を約13年間務めた。

2000年?~:80歳を過ぎた頃から認知症を発症し、表舞台から退いた。

2016年:1115日、老衰のため死去。享年98歳。

 

【藤原ていの著書】

『流れる星は生きている』日比谷出版社 1949 のち偕成社文庫、中公文庫

『灰色の丘』寳文館 1950

『生きがい論』秋元書房 1971

『いのち流れるとき ひとりの女として妻になる才覚』青春出版社 1971

『赤い丘赤い河 十字架を背負って』修道社 1972

『果てしなき流れのなかに』家の光協会 1977 のち中公文庫

『かぎりなき日々に』家の光協会 1981

『旅路 自伝小説』読売新聞社 1981 のち中公文庫

『わが夫新田次郎』新潮社 1981

『妻として母としての幸せ』聖教新聞社 文化教養シリーズ 1982

『生きる 藤原ていエッセー集』読売新聞社 1984

『たけき流れに』家の光協会 1985

『家族』読売新聞社 1987

『運命』読売新聞社 1989

『あなた、強く生きなさい。』講談社 1993

『絆』読売新聞社 1993

『折々の栞』読売新聞社 1996

『大地』パール・S・バック・藤原てい訳・山中冬児絵(偕成社 少女世界文学全集)1962


【藤原
てい『流れる星は生きている』の「あとがき」】
 

 文庫本にして頂くことになって、私はあらためて、この本を読みかえしてみた。あれから三十年がすぎているというのに、引揚げの傷跡は、私の中に生きつづけているとみえて、幾晩か夢に苦しめられた。今更……と自分でも思いながら、夜をおそれた。何者かに追いまわされる恐怖で、声を上げたりして、その自分の声で目覚めた時のむなしさ、切なさ。汗のにじんだ額を拭いて、再び眠りにおち込んでゆく時のかなしさ。

「昨夜はねむれませんでねえ……」

などと話しかければ、ふだん、ねむりこけている私を知っている夫は、ふき出すだろうと思ったが、「そうか」と、やや深刻な返事をした。私が本を読みかえしていることを知っているからであろう。

彼は私が引揚げてから、約三カ月おくれて、北満州の延吉という場所から引揚げて来ていた。丸一年間の捕虜生活がどれほどみじめであったか、およその想像はつくけれども、彼はめったにその話をしない。ただ再び、この平和な時代になっても、その国を訪れようとしないところをみても、その傷はどれほど深かったことか。彼は今、小説を書いているが、自分の引揚げの記録らしいものはたった一度書いただけ。彼のおびただしい作品の中には、その片鱗さえも書き込まれてはいない。

 いつの問にか、私共夫婦の間には、「引揚げの話」は、禁句になってしまっていた。

 当時五歳だった長男も、今は三十五歳。大学で機械工学を勉強して、自動車メーカーに勤めている。一児の父にもなった。その彼が、引揚げの話にふれると、黙って席を立ってしまう。五歳の心に、あの苦しみは、それほど鮮烈にやきついているのかと思うと、あわれにも思う。

「お母さん、ボクはお腹一杯なんだよ、だから、このお芋、赤ちゃんに上げて……」

 三日食べない空腹をかかえて、彼はそんなことを言って、私を救けてくれた。多分、五歳の知恵の全力だったのだろう。だから、私は心して、彼の前で、引揚げの話にはふれないことにしている。

 当時二歳だった次男は、アメリカの大学で、三年間、数学を教えていたが昨年帰国し、今は日本の大学で教鞭をとっている。この次男は、あまりに当時幼なすぎて、引揚げの苦しみは全く記憶にないと、私は考えつづけて来た。その彼が、「ボクはどうして川がこわいのだろうか、日本でも、アメリカに居たときも、どんなに小さな川でも、一応は立ち止って、考えてから渡るような習慣を持っているのだが……」

 つい先頃の話である。私は、彼の顔をまじまじとながめた。

 「やはり、そうだったのか……」

 朝鮮の平野を流れる河を渡る時、胸までつかる水をかきわけながら、彼を落すまいと、私は、横だきにした手に力を入れた。彼は恐怖のためにヒーヒーと泣いた。

 「泣くのじゃない」

 私はかなりきつい言葉で彼を制した。

 その時のおそろしさが、今、彼の潜在意識として残っているのだろうか。

 彼は、堂々と、対等な立場で、何の偏見もなく、アメリカの生活を楽しんで帰って来た。何者にもおじず、世界は自分達のためにあるぐらいに考えていると思っていたのに、やはり引揚げの記憶は身体の中に残っているらしかった。

 当時、生まれて間もなかった娘も、三十歳になった。大学で文学を勉強していたので、小説でも書き出すのかと思っていたら、自分で結婚の道を選んだ。すでに二児の母になっている。

 「好き嫌いをしてはいけません、ママたちの小さい時は……」

 などと・子供たちを叱りつけている。彼女は、引揚げの苦しみを全く知らないので、私の書くものも、話も、素直に耳に入ってゆくのだろう。

「私は、お母さんのような苦しみに耐えられるかしら」などと、母親としての立場で、私と比較しながら、生きている様子である。

 文字通り、私は彼らを育て上げるのに心血をそそいだと言っていいかも知れない。同じ年代の子供たちよりも心身ともに深い傷を持っているだろう彼らを、とにかく一人前に育て上げるのは、並大ていの努力ではなかったような気がする。

 しかし、彼らにこの不幸を背負わせたのは、親である私の責任だと考えた。その謝罪の意味もあって、ある時は、自分の生きているということすら忘れるほど、彼らのために打ち込んだと言えるかも知れない。

 そして今、彼らはみんな巣立ってしまった。ひとり一人が、そのかがやかしい人生を歩き出した時、その姿のまばゆさに眼を細めながら、

「ああ、みんな行ってしまった……」

と、つぶやいてみた。しかし、これが人生というものなのだと、私は考える。枯れ葉はやがて、そっと散りしいて、新しい芽の肥料にならなくてはなるまい。これが自然の摂理というものなのだ。愚痴は言うまいと思う。悲しみや切なさは、自分の心の中で処理しよう。決して、決して、彼らに追いすがるようなマネはしてはならないと、きびしく自分に言いきかせている。ましてや、手柄を語るなどと言うことは、口が裂けても言ってはならないと思う。

「お前たちを、こんなに苦労して育てたのよ」などとは。

 引揚げて来てから、私は長い間、病床にいた。それは死との隣り合せのような日々だったけれども、その頃、三人の子供に遺書を書いた。口には出してなかなか言えないことだけれども、私が死んだ後、彼らが人生の岐路に立った時、また、苦しみのどん底に落ちた時、お前たちのお母さんは、そのような苦難の中を、歯をくいしばって生きぬいたのだということを教えてやりたかった。そして祈るような気持で書きつづけた。

 しかし、それは遺書にはならなかった。私が生きる力を得たからである。それがこの本になった。

 今考えると、私は彼らに何一つ残してやるものはないけれども、この本だけは、たった一つの遺産として、彼らに生きる勇気を与えてくれるかも知れない。

 そして今の私は、静かに彼らを見守りながら、その人生の果てる日まで、誰にも迷惑をかけないように、一生懸命に生きつづけて行こうと思っている。       昭和五十一年一月

【物語のあらすじ】(「竹内みちまろ」の文章を参考にする)

藤原てい「流れる星は生きている」は、戦争中に新京(長春)にいた著者が、3人の子どもを連れて、満州(中国東北部)から引き揚げ、朝鮮半島の38度線を越え、アメリカ軍に保護、その後、釜山から引き揚げ船にのり博多へ入港し、故郷の長野県諏訪地方へ帰りつくまでの行動記です。 

 ていは、県立諏訪高等女学校卒業後、気象庁勤務の藤原寛人(作家の新田次郎)と結婚し、満州へ渡りました。夫は、新京の南端にある南嶺(なんれい)の観象台(気象台)に務めていました。

ていは、1945年(昭和20年)89日の夜、観象台から帰って来た夫から関東軍の家族がすでに移動を始めていることを知らされます。政府の家族も続くように言い渡されます。夫は、まだやることがあるからと、ていに3人の子どもを託しました。

長男の正広は6歳、次男の正彦は3歳、長女の咲子は生後1か月でした。

 ていらを含む観象台の家族たちは「観象台疎開団」と自らを名づけ、汽車の中では、集団行動を取りました。奉天を過ぎ、満州と朝鮮の国境・鴨緑江の鉄橋を渡ります。いまだ満州に近い北朝鮮北部の(せん)(せん)で列車を降り、宣川農学校の校舎に収容されます。そこで、815日の終戦を迎えました。

 10月、18歳から40歳までの日本人男子が汽車で平壌へ送られることになり、夫が旅立ちました。

 1月、次男正彦が肺炎になり、ていは大変苦労しました。平常へ送られていた男たちが引き上げてきましたが、夫は帰ってきませんでした。

 ある日、長男正広がジフテリアを発症します。高熱にうなされ,大量の鼻血が吹き出ます。ていは友人に助けられ、必死に正広の看病にあたります。(本日はこのあたりの場面を朗読いたします。)

食糧も不足する中、日本人会本部が中心となって、帰国が始まりました。

⒏月1日、平常に向かう列車に乗りました。平常から新幕(しんまく)までは貨車で移動です。

「流れる星は生きている 地図」の画像検索結果 ていは、3人の幼子を連れ、ときに、22晩も眠らず、移動を続けます。力尽きて倒れる人もあり、牛車を雇ったりしながら、歩き続けます。朝鮮の農家に宿を乞い、一晩、馬小屋に泊めてもらい、保安隊に見つからないよう、早朝に馬小屋をあとにしたりしました。赤土の泥にまみれて歩き、川を徒歩で渡り、38度線を越えればアメリカ軍がいると聞いていました。それはそれは壮絶で必死の旅でした。(このあたりが物語のクライマックスです。)

 38度線に着くと、ソ連兵が何やら相談をした後、遮断機を開けてくれました。ていは、アメリカ軍のトラックに保護され、テントに収容されます。ていの足の裏は完全に掘り返され、アメリカ軍は、ていの足の裏から発掘物を取り除きました。正彦の足の裏も、ひどく化膿していました。

 貨車で釜山まで運ばれ、引き揚げ船に乗ります。博多に着きますが、下船許可が下りず、船の中で死ぬ子どもたちもたくさんいました。

 昭和21年(1946年)912日、ようやく博多に上陸したていは、引き揚げ証明書を交付されます。毛布、子ども服、下駄、乾パン、ひとり5枚ずつの外食券などを渡され、汽車で長野県の上諏訪駅に到着。

4年ぶりに会ったていの2人の弟は、ていの姿に驚がく。ていは両親に抱きかかえられると、「これでいいんだ、もう死んでもいいんだ」「もうこれ以上は生きられない」と、きりの湖の中にがっくり首をつっこむや、深い淵へ沈んでいきました。

【終わり】